きりんの散歩

趣味は美術館めぐり。生息地は福岡。遠くまで行くこともあります。アイコンは我が家のモネちゃん。twitter:@kirin11_04

墓を建ててDIORをみる@東京

インスタの付け足しをしていく。

自分の認知を言葉にする。そんなことにハマっている。こんなに、もどかしいのは何処から来ているのだろう。きっと認知→言語化する過程で自分の知らない自分を見つけられるのではないか。そういった話。

泉太郎 個展「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.」
東京オペラシティアートギャラリー

美術館全体を使った展示。
※ネタバレあり。

マントを着る、ルールを聞く、テントを立てる、待つ、VRをみる。再野生化を目的として石室に横たわっていたらしい、たぶん。そんなルール説明があった。
最初にコインロッカーを使っていてとてもいいなと思った。ロッカーあるのに荷物持っているひとは集中できるんですか?って感じてしまうから、全員に荷物を強制的に下ろしてもらうように組み込まれた導線がサイコーじゃん!ってなった。マントはスタッフさん(のコスプレをしたひと)に助けてもらって着た。ロッカーにマントが入っていたのだ。そのあと椅子に座りQRコードを読み取る。人によって言ってることが違うのかもしれない。なぜなら一席ずつにQRカードがぶら下がっていたから、でも同じかもね。流れてくる音声は2人でヒソヒソしながらルール説明していた。ルールはしっかり覚えながら聞かないといけない状況に置かれてたようだけど、10個は長いのよと飽きそうな気配を感じつつも途中の「やだよ」とかのやり取りだったり、声がとっても可愛かったりでなんとか気持ちがきれずに保ていた。

席を立つ。奥に進むと謎の南国。モニターたちが休まされている。モニターたちは労働からの解放されてるかといわれると、最後にはわかるんだけどモニターがVRになっただけだった。全然働いてた。近づいただけだったね、これからもともに歩んでいこうね…。

廊下にでるとマントを脱ぐようにスタッフさん(のコスプレをしたひと)に促される。角を曲がると指示書が壁に書かれている。棒を持って奥の部屋へ歩いていく。Twitterで見つけた楽しそうな展示。この部分をみて思ったんだ。やっとテント建てれるぞーーー!と脱いだマントがテントになるんだけども、支柱を使って建てるの下手くそすぎて2回ほど崩壊した。わたしは墓さえも作れないヤツだ。見かねたスタッフさん(のコスプレをしたひと)に助けてもらって、墓が完成した。

壁にかかっている素焼きの札を取るときに番号が書かれていたから、114って誕生日の数字にした。札でVR受付待ち。めちゃくちゃ待つらしいとTwitterで予習したから、開館時間に来たんだよね。呼ばれるまで30分くらいだった、思ったよりも短い。待ち時間は4階コレクション展をまわって、3階の墓に戻ってきて、また墓の中でゴロゴロしてみた。何も気にせず寝転んだ。あー、眠たくなった。そこまで眠気が来ていたし、墓で寝てもよかったのかもしれない。

でもスタッフさん(のコスプレをしたひと)に呼ばれた。さっき見て進めなかった南国の石室へ案内された。ここに繋がっていたんだ。クロネコチャンたちがゴロゴロしていて、労働からの解放を謳歌してた。そこを通って、ゴツゴツした副葬品といっしょに葬られた。石室にVRをつけて横たわるだけなのに、かなり目につけるのに手間取ってスタッフさん(のコスプレをしたひと)に助けてもらう。いよいよ石室の蓋を閉じてもらう。「何かあれば鈴を鳴らしてください」と何かを持された。ゴムの部分を掴んだとき、コレはお風呂の栓ではないかと疑問に思った。手で鈴を探っていると無事を心配される。無事です!好奇心です!ジッとすると窮屈だな狭いなって思った。だけど確かに古墳の骨たちは膝を抱えて眠っているから、こんなもんなのだろう。死んでしまったといえども、身体的にはのびのびと余生の余生であるあの世を過ごしたい。焼かれて魂の入れ物がもうないとしても、のびのびとした骨壷か散骨されたいといったところか。父も母も墓に入りたくないと言っていた。墓というものは魂にとって窮屈な存在なんだろう。

イントロダクションより
「古墳や陵墓、ストライキ、再野生化、仮病、鷹狩におけるマニング(懐[なつ]かせる)やフーディング(目隠し)他、数々のキーワードが絡み合う思考のプロセスと、コスプレ、キャンプ、被葬のような体験を織り交ぜ、不可知に向き合い続けるための永久機関を立ち上げます」とステートメントに書かれていた。

もしかして私は鷹になったのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。

兎にも角にも、美術館好きには刺さってきた。美術館という建物とルールに則ったうえで、あちこちへうろつく行為と鑑賞はたいへんに楽しかった。飼い慣らされたわたしの骨は、ルールを教えてくれた美術館に撒いてほしい。

 

このあとは出光美術館若冲みた。屏風すごく良かった。

https://www.instagram.com/p/CoevX3oyLBy/?igshid=YmMyMTA2M2Y=

 

今回の旅のメインはこの日の夜のためだった。水曜日の夜に東京でライブだなんて。なんてTOKYO TOKYOしているんだろう。文化資本の地方格差について是正措置を求めたいくらいだ。有給を2日消費した。これが正しい有給消化と言われたらそうなのかもしれない。

BBHF SOLO LIVE『愛のつづき』
LIQUIDROOM

 今更ながら BBHFは GalileoGalileiのメンバーが終了後にほぼ同じメンバーで立ち上げたバンドだ。ずっと彼らを追いかけている。そのうえで気がついたら2つのことについて、まとめてみた。

まず第1にツアーではないということ。
この人たちがツアーではなく1ヶ所限りのライブをするときは、何か意味がいつも以上に込められている。Galileo Galileiの最後の武道館。BBHFはじめてのライブ。warbearのre:bearライブとか。

ツアーはアルバムのコンセプトや成り立ちが主なものになるけど、今回のタイトルが愛のつづきということでとにかく謎だった。でもまあ長い付き合いになってきたから、BBHFが言いたいことはわかる。MCで言うことも大体想像つく(くらいに喋る時間少ないし、要所要所しか言わないため)。でもセトリどうなるの!って謎で謎でわくわくした。
2つめに事前のツイートでテンションが高めだとわかったということ。
「そういえばライブでみんな自分と一緒に大声で歌ってくれていいんだよ」こんなことをざき兄はあまり言わない。「どの曲も一緒に歌って楽しいよ 口パクでも全然いいす」どうしたんだ、いったい…で、当日過去1で楽しかった。ざき兄もそう言っていた。

この人たちって本当に喋らないからGG時代(Galileo Galilei)は手を挙げてたファンも、いまでは棒立ちで聴き入って「ありがとう」ってざき兄が曲終わりに締めてから拍手する、しみじみ鑑賞スタイルが形成されててテンション上がるような余白が少ないんだけど。ざき兄次第だということに気が付かされてしまった。ざき兄だけ登場からニッコニコしてて(かずにゃんもダイキくんもいつものような感じだった)これまでを振り返るともはや爆笑だと思えるほど、それくらいのニッコニコ。ずっと笑ってた。歌詞に合わせてフリのように動作をつけたり、スタンドからマイク抜いたり、歩き回ったり、飛んだり、客に歌ってーって感じで煽ってみたり、新曲4曲中3曲も演奏したり。ほんとにどうしちゃったのよ???なんでそんなテンション高いんだ!???釣られて笑ってしまう。こんなことしなかったじゃん!こっちは拍手しか出来ないけど、いつものしみじみ鑑賞スタイルにプラスして曲を重ねるごとに拍手が長くなっていった。それからざき兄が要所でお知らせしてどよめき、歓声。今回はずっと脳内で一緒に歌ってた。そしたらとても楽しくなった。メンバーみんなと楽しくなった。観客のボルテージが高まっていく一体感もあった。

「めちゃくちゃ不味いパイをみんなで食おうね」正面から反抗するのもいいけど、食べちゃうのはもっと素晴らしいことだと思わせてくれるはずだ。飲み込んでしまおう。

 

次の日、これもどうしても行きたかった展示。

クリスチャン・ディオール、 夢のクチュリエ
東京都現代美術館

キラキラした宝石はみるだけでテンション上がる。そのことに気がついて、カルティエ展に行ってから鉱石を集めるようになった。ハイブランドと呼ばれるものたちは到底わたしには買えやしないけど、でもこうして展示になれば美術館のなかでじっくりと職人の一点ものを眺めて向き合うことはたまにできたりする。そこからひとつひとつ違う一点ものやそれぞれのコンセプト、その人らしさに合わせて大切に作られてきたものを自分が選択できる範囲で基準にしたいと思えてきた。

ディオールもそう思わせてくれる内容だった。美しくて繊細なつくりから完璧で隙のない服やアクセサリーたちが整列されている。針が刺さったまま鉛筆で白い布に直で下書きされたデザインの試作品が、未完成とは思えないくらいに世界観が確立しているようだった。

周りは若い女の子たちが多く来ていた。高校生のグループとか見てると、美術館という場所でディオールという内容で、友だちと写真撮りながらきゃっきゃ言えるの良い青春だなと思った。わたしも写真いっぱい撮ってしまった。キラキラ、フリル、レース…心が躍りまくっていた。布の縁をなぞりたくなるシルエット。パリコレなどのファッションショーの服をこんなに近くでまじまじと見つめられる贅沢さに長く滞在してしまった。

最後に生島さんのディオール肖像画があった。目の前が出口で外に誰かが出て行くたびに、ガラスの反射で絵の中で扉が開いている。それがとても幻想的だった。

 

追伸 もどかしさは何処から生まれるのか。わたしはその謎を解き明かすべく言語化の奥地へ向かった。特に何かが見つかったわけではない。見つかるとか特に思ったわけでもなかった。自撮りするようになったのも、内面でなく外見から自分を観察してもいいのかなというアプローチだ。いまは自分をROMってるところ。